がんばれ。

正義の味方か・・・・。
本当の正義が通る世の中ではない。そして正義は人の見方によっても異なる。
私は自分が正義を貫く人間だなどとはもちろん思ってはいない。
しかし、それについて一生懸命であるべきだとは思う。
そしていつもそれで悩み苦しむ。
夫婦喧嘩をしたこともある。妻は私のように物事の本質がなんであるか、そのどこに正義があるのか、など、まったく考えない。
彼女にとって、正義について考えると言う事など、夫婦喧嘩においてはまったく興味がない。
完全に自然体なのだ。
自分の感情や気分、体調、精神状況に素直なのだ。それを彼女はコントロールしない。自分の経験と、直感で生きている。
そして私はそんな彼女が好きだ。

しかし私は自分をどこかで恥じているのか、自分の感情をコントロールする事を重要な課題としている節があるように思う。
煩悩の固まりのような私は、自分の感情でさえ、正義を追及する。
一方でその帰結としての行動は、常に正義であるとは限らない。
ぶっちゃけそこまでは無理だからだ。
肉体や行動までも心の追求と比例したら、きっと生きていられない。
自由と抑制のバランスは、私の中でとても大切だが、バランスがいつもとれている訳でもない。

2年前まで責任者を務めていた拠点の部下から昨日電話が来た。
新しい生産側の責任者のMさんが、私が独立させた協力会社の社長を、恫喝し、脅しているという内容だった。
「おまえの会社など、いつでも切ってやる」
とか、
「来年は違う会社に変えてやるから覚悟しとけ」
などと、いつも取引停止をちらつかせ、無理難題を押し付け、金銭的にも追い込み、無責任に怒鳴り散らしているらしい。

一体正義はどこにあるのだろう。私はどうするべきなのか。

Mさんに直接電話をして、恫喝しかえすべきなのか、何時間でも道徳モラルについて話をすべきなのか・・・。
しかし、私はすでにそこの責任者ではないのだ。
出て行っていい事とその範囲を考えて行動すべきなのだ。

2つの協力会社の社長は、私が独立を進め、仕事のやり方を身をもって示し、メンテナンス生産の効率化や、高品質整備、5S管理についてなど、5年以上をかけて教育し育て、厳しく、そして愛情を持って接してきた。生産側の責任者から、全体の責任者となったあとも、同様に彼らに接し、常に高いレベルを求め、切磋琢磨してきた。
しかしその一方で、私の存在は、彼らにとって巨大になりすぎた。影響力が強すぎて、私の為や、私の命令ならば率直に聞き入れて猛進するが、私以外の人だと、本気で聞き入れない傾向もある気がする。
私の転勤で、彼らと離れてから、いつも心配していた。
私の存在は、まるで彼らを守る既得権のようにまでなってたのかもしれない。だから私が居なくなったあとの彼らが、本当に心配だったのだ。
確りと言い聞かせてから転勤した。しかし、そんな彼らに、どういうわけか、我社全国でも珍しく有名なほどの老害社員Mさんが、彼らと取引する責任者になった。Mさんは下の立場(部下・後輩)にはめっぽう強い。事実、私がまだ課長だった頃は、生産と販売と、部署が違うにも関わらず、私に突然恫喝の電話をかけ、当時の私の業務とはまったく関係ないことで責められた。
しかしその内容が、私の直接の上司で当時の責任者の担当だとわかると、突然トーンダウンし、ゴリゴリ音がするくらいにゴマすりに変った。
当時私はそれを見ていて、ほとんど怒りは湧かなかったが、笑ってしまった。単純に可笑しかった。わかりやすすぎる人だ。
私が責任者になったら、Mさんは手を返したように態度が変った。
今も数ヶ月に一度程度、電話が彼からかかってくるが、考えられないくらいに友好的だ。上席には完全に弱く脆い。しかし、下の者には信じられないほどの非常識的な言葉や恫喝、脅しを行う。
周りは諦めている節がある。被害を受けた人に周りの社員は、あと2年で定年だから、もう少しだけ我慢しなよ・・・と言う言葉が大半らしい。

協力会社に何か声をかけてあげたいとは思う。
しかし、私自身がそうであったように、世間はそういう人がいくらでも居る。また、そういう逆境も常に訪れる。
乗り越えられない壁を、神さまは人に与えない。
彼らにとってこの壁は、今の、そして未来の彼らに必要な壁だからこそ、そこにあるのではないだろうか。
彼らが私に電話をしてこないのは、彼らがきっと、私だったらなんと言うか、わかっているからだと思う。
人生にも仕事にも、生きる上での物語は、自分の歩く道が、一見ひどく遠回りしているように見える事があっても、実は他でもなくその道が、一番の近道であるんだと、いつも彼らにそう言って聞かせた。
1社の協力会社の社長は10歳年上だ。
もうひとつの社長は、3歳年下だ。

がんばること、辛抱すること、受け入れること。
それらが怒涛のように覆いかぶさってくる時期というのがある。とても苦しいと感じる時間だ。しかしそれは最高の勉強の機会でもある。
乗り越える事を逃してはならない。