強太郎

私が水泳で得たもの。
恩師。
仲間。
そして思い出。
勝つことの喜び。

確かに得たものも沢山ある。

けれど、私は失った物も計り知れないと、ずっとそう思ってきた。

小学校3年生から毎日毎日スイミングに通う生活。日曜日も午前と午後の2回練習なので遊びに行く事もない。夏休みも練習、練習、練習・・・。そして夏は大会が目白押し。
冬休みは合宿。クリスマスを家で祝った事もない。冬の水泳選手は泳ぎ込みの時期。徹底的にトレーニング漬けとなる。
晦日もお正月も、合宿していたスイミングスクールの体育館に敷かれた貸し布団で迎えた。
中学2年の冬、親元を離れ、東京の冷たい風のふくボロアパートの寮に入った頃。あの頃を思い出すと、二度と戻りたくない時代だと思ってしまう。
もちろん今となってはいい思い出ではあるのだ。
けれど、心のどこかで、あの頃の事や、水泳漬けだった自分の青春の時間が、もったいなかったというような、そんな気がしてしまう。

だから、子供たちにも水泳を本気でやらせようとは思わなかった。
あんなに苦しい思いを、子供には味あわせたくないと、そう思ってきた。ずっとずっとそう自分に言い聞かせてきた。
そう、むしろ、水泳なんてやったって、プロもないんだし、良い事なんか何もないからって、そんな風に嘯いて、子供も5人もいるんだし、お金もかかるからなんて言って、スイミングにはほとんど通わせなかった。熱心に子供の水泳を考える事も、あえてしなかった。
水泳に対して目をつぶって、見ない様にして、感心も持たないようにしてきた。

そして水泳時代の最後に、数年という時間を無駄に費やしてしまった。

私は自分の子供に水泳をさせることで、自分の叶わなかった夢や、自分の実績とを、子供に重ね合わせてしまうのを恐れていた。
自分のように一番になって欲しいとか、日本一になってほしいとか、オリンピックに出場してほしいとか、そんな風に期待したくなかった。

私は小さい頃からいつもお袋に期待されてきた。親父だって期待していた。それをずっと感じていた。
「あんたなら絶対に一番になれるだで〜!」
そういうお袋を悲しませたくなかった。ダメな子だねえ〜なんて思われたくなかった。そして、父親にも褒められたかった。
だから、本当に自分の気持ちを抑えに抑え、行きたくもない東京の寮生活を選んでしまった。
お袋や親父から離れたかったのだ。期待に押しつぶされそうだった。

私は子供に、そんな期待をしないように、しないように気をつけてきた。自分のように、苦しませたくないと、所詮、社会に出ても、それほど良い事なんかないんだからって言って、我が家の文化と、できる教育を伸び伸びやればそれでいいと、そう思ってきた。

ところが先日から私の意識は変った。
ある人とのシェアで、私は、私の本当の心の叫びを、自分で聞き取ってしまった。
今からでも遅くはない。一番にはなれないかもしれないけど、5人の子供たちの中で、たった一人の息子。
彼にもっと期待してみたい。日本一の水泳選手の子供なんだから、きっと速くなれる。私も、私の両親のように、自分の息子が「勝つ」姿を見たい・・・。
それが本当の、心の底にある、私の本当の姿だった。

今の自分が、本当になりたかった姿じゃないから、自分にこんなもんだって言い聞かせていただけだった。
本当は私は、子供と一緒に水泳を感じたい。
どうせ一度きりの親父と息子の関係だ。息子の水泳選手としての姿を見ることなく、人生を終えるのは嫌だ。
見てみたい。
強太郎が「勝つ」姿を。
昔の私のように、表彰台に乗って、誇らしげに観客席に向かって笑い、手を振る姿を。

たとえそこまで行かなくてもかまわない。でも、目指してみたい。

水泳があったから恩師と出会えたんだ。
水泳があったからこそ今の自分がある。
あのお袋だったから、自信を持って生きてこれたのだ。
恩師が早く死んでしまったことで、私は半分、自分の人生を捨ててしまっていた。
違うんだ。このままじゃない。絶対に違う・・・・・。

自分の最大のトラウマは、本当の自分の心だった。

5人の子供たち、全員に、何かに打ち込ませられるチャンスを探そう。これからいつも、もっともっとそうしよう。
そしてそこに、もっともっと経費をかけよう。いっぱい借金してでも、そうしよう。
一度きりだったんだ。強太郎との親子関係は。
この生涯を逃したら、二度と強太郎とは会えない。
だから、私は息子を競泳選手にする!