火垂るの墓

お腹が空いたのでコンビニでおにぎりを買った。
会計を済ませ、車に乗り、おもむろにパッケージを開け、一口かぶりついた。
その時、ふと急に、「火垂るの墓」という野坂昭如原作のアニメを思い出した。私が初めてアニメで涙した映画だ。
このストーリーの中で、主人公「清太」の妹「節子」が、弱りきった体と朦朧とする意識の中で、自分で必死に作った『どろ団子』を、自分で幻覚化してしまい、清太に、
「はい、おむすびですよ。たくさんおあがり。」
と言って差し出すシーンがある。その直後、節子は栄養失調が元で命を落としてしまう。

あの映画を観て以来、時々おにぎりを手にすると、火垂るの墓を思い出してしまうようになった。
戦時中は、鬼畜アメリカの殺人兵器によって広島・長崎では合わせて30万人以上の日本人が大虐殺された。疎開していた事で子供は助かったが、母親が原爆で亡くなってしまい、父親は戦地で戦死すると言うような、いわゆる戦争孤児が非常に多かった。
火垂るの墓にも出てくるが、そういった子供たちは、食べる物もなく、物乞いをし、畑で盗みを行い、飢えて栄養失調で、その小さな命を落とした。
東京の無差別爆撃大空襲によってアメリカ人に殺された日本人は60万人。ここでも多くの孤児が生まれた。
戦後は、親戚などに引き取られ虐げられながら何とか生き延びた子供もいた一方で、兄弟で辺りをさまよい、人通りの多い、駅などの片隅で亡くなっていく子供たちも多かったのだ。
そんなことをふと思うと、現在、たった100円出せば、ひょいとおにぎりを買えるこの幸せな社会に、昔の人への罪悪感と感謝の気持ちを覚える。
たった一つのおにぎりが食べられたら、生き延びられた子供たちが、どれだけいただろうか・・・。
時代が違うと言うだけで、確かにこの同じ日本の地に、飢えて死んでいく幼い命がどれだけあったことか。
コンビニのおにぎりを持ったまま、ボーッとしながら、辺りの景色に戦時中の光景を重ね合わせてしまう私。
そんな風にして、胸が詰まってしまう。

そして実は今でも、モンゴルやその他世界の国々では、中国のウイグル地区侵略によって両親を虐殺された子供たちや、モンゴルの街の地下下水道でクラス孤児、マンホールの中で寒さを凌ぐ孤児、アメリカの石油利権によってこじ付け爆撃を受けたアフガンの戦争孤児たち。そういう子供たちが、あの頃の日本で、たった一つのおにぎりを食べる事が出来ずに命を落としていった子供達と同じように、1人、また1人と、同じ命をなくしている。

この国の経済のシステムを狂わせているのは、日本人の強欲さのせいである。政治、役人、経済、マスコミ。どこからこの国を見ても、どう考えてもまともじゃない。しかし、そんな不満など、どうでもいいという気持ちになってしまう。
日本は、私たちの税金から社会保障制度を作り出し、今では餓えて亡くなる子供や人なんて、もういない。
自動販売機の下を覗けば、100円玉のひとつくらい、どこかに落ちてるくらいだ。そしたらおにぎりは買える。
役所に行けば、食事を摂らせてくれる施設へ案内してくれるだろう。

ちょっと大通りに出れば、
ラーメン。
100円回転寿司。
うどん。
牛丼。
焼肉。
コンビニ。
食べる物が溢れる時代だ。
そしてそれは、すべてが金さえあれば好きなだけ食べられる。
この国に、いや、この街に、世界の餓えた孤児たちが一斉に現れ、お腹を空かせて死にそうになっていたら、そしてその子たちが1万人目の前にいたら、私たちはどうするだろうか。
今そこで命を落としそうになっているのを目の当たりにしたら、どうできるだろうか。
自分の私財をすべて擲って、子供たちに食事を摂らせてあげるだろうか。
それとも、見て見ぬふりをして、逃げるように家に帰るだろうか。