外的要因



ネガティブには色んなパターンがあることが最近わかった。

たとえば単純に、何かをチャレンジしようとすると、いちいち出来ない理由ややった場合のリスクばかりを猛烈に話しはじめる、自分では過去、何も成してこなかった、このような無能上司とかなら、毎度のこと。

こういう人には一言、
【すべて私が責任持って、自分が許可なくやりましたと報告しますから。】
と言って、最後は黙らせるのだが、大体うまく行くので、いい結果が出ると、急にいっちょ噛みして来て、自分が指示したかのように発言を始めたり。

こんな野郎はどうでもいいやつでしかないけれど。


いつもながらに足を引っ張られることだが。

しかし最近、このような単純な人、単純な思考ばかりでもないなあと、そんな事を近頃感じる。






ネガティブな思考は、自分に何が起きていても、自分の生活がどのような周期であろうと、そこに不満やストレスを感じた瞬間、その原因がすべて
【外的要因】
にあると、そう完全に思い込んでしまう人に多い。



自分の身に起こっていることは、すべて自分のそこに原因があったからで、すなわち概ね自分で作り上げている出来事の結果にすぎない。
自分が求めたことの帰結にすぎない。
だから自分で変えることも出来るはずなのだ。

しかし、ネガティブな思考者は、原因が外側にあるとしか思えないので、自分では変えられないと思い込んでしまっている。
そして常に人に原因を感じ、ストレスを一層積み重ねる。


至極簡単なことまで、
【他人が原因で、自分が被害にあっている】
と思い込んでいる。


しかしそういうタイプの思考をする人には、かえって自分の弱さや自分の考えや準備、場合によっては自分の努力や内面的な思考努力に欠けていることがほとんどである。
依存している人に多く、自分では勝負できない人に多い。



実際の話、実は、外側からの不の影響などはほとんどなく、本当は逆に周りの人々のほうが、物凄く気を使っていることのほうが多い。


迷惑をかけているわけだ。


それに気づかないのである。


自分に原因を求めない人、自己研鑽できない人は、自分に向き合う勇気がない。

矢印を人に向けるのは得意でも、自分に向ける勇気がないのだ。

常に外側に原因があると思い込み、かえって周りの人に気を使わせて、周りの人に精神的に負担をかけていることを知らない。


それに気づかないのである。


このように、自分の事はまったく見えない人であっても、人を見て観察し、都合よく解釈することは簡単に出来る。

その解釈が、正しいか間違えているかはさておき、人は見る人によってどのようにでも都合よく解釈する。


人が良かれと思ってやっていることがあっても、ある人には都合の悪いことであったら、それはそのある人からは悪人となる。



人間社会はこのような
【利害】や【自己の正当性】
の連鎖と、そのせめぎあいの中に存在している。



これは大きく捕らえて政治においても同じだし、小さく捕らえて、友人関係でも夫婦でも同じ。



観方を変えるだけで、視点の角度をほんの少し変えるだけで、世界も人の関係性も驚くほど変わる。


人に限らず、物事であっても同じ。



誰かのせいにしても結局何も変えられない。

何も変わらない。

そして自分も変わらない。

成長することもなければ、新たな物事との出会いにも気づかないだろう。

こうなると、自分の心の言葉が存在せず、人が言った言葉を、オウム返しする事くらいしか出来ないのだ。




法は、そこに定める倫理の追求の結果で、被害者と判断される人を、法的に救済することは出来ても、法では被害そのものは解決できない。

自分が被害と思っているそれは、それをどう捉えるか、それをどう変化させられるか、その租借の度胸によって大きく変わる。

そしてその租借能力は、普段からの不断の生きる努力の積み上げによってしか培えない。

法律で犯罪と判断された被害者ならば別だが、日常に自己の感じ得るストレスや不満程度の被害など、加害者は存在していない。


つまり、誰も原因を作ってはいないということだ。

つまり、自分が原因を作ったということに過ぎない。




自己研鑽せよ。

人のせいにして成長を放棄するべきではない。

誰もあなたを成長させてはくれない。

成長するかしないかを決めるのは他人ではなく、自分だからだ。



人格成長を放棄し、租借能力を高める努力から逃げ、人間力でよりよい人生を創造し、人に尽くせる人間になることを放棄するのなら、人間社会を享受することも同時に放棄せよ。